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相馬義胤 (十六代当主) : ミニ英和和英辞書
相馬義胤 (十六代当主)[そうま よしたね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう]
 【名詞】 1. aspect 2. phase 3. countenance
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [たね]
 【名詞】 1. issue 2. offspring 3. paternal blood
: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
十六 : [じゅうろく]
 【名詞】 1. 16 2. sixteen 
: [ろく]
  1. (num) six 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
当主 : [とうしゅ]
 (n) (present) head of a family
: [ぬし, おも]
 【名詞】 1. owner 2. master 3. lover 4. god 

相馬義胤 (十六代当主) : ウィキペディア日本語版
相馬義胤 (十六代当主)[そうま よしたね]

相馬 義胤(そうま よしたね)は、日本戦国時代から江戸時代武将戦国大名陸奥相馬氏第16代当主。
==人物概略==
小高城主。宇多郡行方郡標葉郡の領主。父・盛胤天文の乱より後、晴宗派の伊達氏との確執が続く中、三春城田村郡)の田村氏と和睦することによって所領の基盤を固めた。父の方策に従い幼き頃から各地を転戦。奥州覇権を求めた伊達輝宗政宗に近隣の諸大名小名合従連衡を繰り返して対抗した。
亡き曽祖父である伊達稙宗の隠居城(丸森城)やその近辺である伊具郡宇多郡の領有権争いでは、大勢を決したため田村氏の仲介により伊達氏へ伊具郡を返還し、一時和睦が成立した。蘆名盛隆が死去し、関白に任官した豊臣秀吉の権勢が強まると、伊達氏はそれまでの洞 (武家)による支配体制を覆し、親戚である蘆名氏の領土(会津地方・中通り地方)を侵攻し始めた。その動きを警戒していた義胤は当初、中立的立場を保っていたが、人取橋の戦いを優勢に進めた岩城常隆佐竹義重等と次第に連合軍を形成していった〔岩城常隆は亡き蘆名盛隆の姉妹を妻に持ち、母は佐竹義重の姉妹。人取橋の戦いの後、佐竹義重の次男・佐竹義広蘆名氏を継いだ。蘆名亀王丸の祖母であり、須賀川城の女城主である二階堂阿南も佐竹・岩城と同調した。〕。田村清顕の死後と豊臣政権惣無事令の後、石川弾正を支援して再び伊達氏と戦い、田村清顕夫人(叔母)や田村梅雪斎大越紀伊等と共に三春城占拠を画策。失敗して小田原城北条氏政と同盟を組む伊達政宗との決戦を望んだ。政宗が田村氏を家臣に組み込み、相馬領の宇多郡北部(相馬郡新地町駒ヶ嶺)を攻め取り、黒川城須賀川城を陥落させて蘆名氏、二階堂氏を降したことで義胤は窮地に立たされたが、蘆名氏はすでに豊臣家に臣従していたため、怒った秀吉は上杉景勝蘆名義広の実父・佐竹義重へ「伊達政宗討伐令」を発令。義胤は岩城氏の援軍を得て伊達氏を攻め、海道での戦況を巻き返した。しかし、会津仙道地方では名だたる将兵が次々と伊達政宗に屈服し、岩城常隆は伊達氏と和睦。義胤は弟の隆胤を失った。ことに隆胤の進軍は政宗が小田原参陣中の出来事であったので反って相馬氏を攻めるための大義名分に利用された。政宗は相馬攻略を画策したが、まもなく義胤は小田原征伐を終えた豊臣秀吉の奥州仕置で所領を安堵され、政宗が服属させた二本松領、蘆名領、二階堂領、白川領等へは織田信長の娘婿・蒲生氏郷が封ぜられ、岩城領へは佐竹義重の三男・貞隆が封ぜられた。これは豊臣政権の都合によるもので、伊達氏の勢力伸張を抑えるとともに、伊勢国という京都に近く天下を狙える位置に領地を持ち、織田家の洞の中でも実力者であった蒲生氏郷には事実上の左遷であったが、義胤にとっては幸いであった〔このとき宇多郡北部は相馬側へ返還されてはいない。この地は相馬顕胤伊達晴宗の時代に双方から在野の豪族へ安堵状が当てられていた地であった。〕。豊臣政権下では六大将とされる佐竹義宣と親交を深め、朝鮮の役などの行動を共にした。
関ヶ原の戦いでは大坂に嫡子・三胤(蜜胤・利胤)を残し、自らは所領の守りを固め、政宗に相馬領を通過させた。義胤の娘は岩城貞隆の正室となっており、相馬、岩城、佐竹は連帯している〔。慶長7年(1602年)、牛越城下において相馬野馬追のさなかに義胤に対し、関ヶ原で徳川方に与しなかったとして改易されたものの、蜜胤の訴訟や本多正信の説得などがあり、同年10月、嫡子をもって相馬氏による三郡の再統治を認められた。尚、上杉領には関ヶ原の戦いで東軍に属した蒲生秀行が封ぜられ、岩城領には伏見城の戦いで真先に西軍から攻められて討ち死にした徳川家老臣鳥居元忠の嫡男・忠政が封ぜられた。
大坂冬の陣には義胤の嫡男・利胤が徳川方で出陣し、大坂夏の陣へは病で倒れた利胤の変わりに急遽、義胤が向かった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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